東京高等裁判所 昭和58年(行ケ)166号 判決
1 請求の原因1ないし3の事実は、当事者間に争いがない。
2 そこで、原告主張の審決の取消事由の存否について判断する。
(一) 本件発明と先願発明とは、共にインキの組成自体に特徴があるものであること、先願発明の要旨は、審決認定のとおり、引用例の特許請求の範囲に記載された「糊剤を溶剤に溶解した溶液に、上記溶剤よりも蒸気圧が低く且該溶剤とは混和性を有するが糊剤に対しては非溶剤である稀釈液を配合したベヒクルに必要に応じ分散剤の存在下に顔料を分散せしめたことを特徴とする黒板筆記用インキ」であり先願発明における溶剤は、本件発明における揮発性エステル類、ケトン類からなる溶剤を含むものであり、また該溶剤に溶解した糊剤は、本件発明における該溶剤に可溶性のビニール系樹脂を含むものであり、更に該溶剤よりも蒸気圧が低く該溶剤とは混和性を有するが糊剤に対しては非溶剤である稀釈液は、本件発明におけるビニール系樹脂を溶解し難い不揮発性溶剤に相当することは、当事者間に争いがない。
したがつて、本件発明は、インキを組成する材料となる物質自体については、一応先願発明と対応関係にあることは明らかである。
しかしながら、本件発明は、有機溶剤に可溶性のビニール系樹脂でコーテイング処理してなる顔料を、揮発性エステル類、ケトン類からなる溶剤と不揮発性溶剤との双方を混用した有機溶剤中に溶解、分散させるものであるのに対し、先願発明は、顔料を、糊剤(ビニール系樹脂を含む。)を溶剤に溶解した溶液と稀釈液との混合ベヒクルに分散させるものであるから、両発明は、各要旨のインキを組成する成分のうち顔料とビニール系樹脂ないし糊剤をそれぞれ他の成分(本件発明においては二種の特定溶剤、先願発明においては糊剤を溶剤に溶解する溶液と稀釈液に配合する形式において相違しているというべきである。
原告は、この点について、本件発明のように、顔料を樹脂でコーテイングして用いようと、先願発明のように糊剤と顔料とを別々に用いようと、いずれもインキ中において溶剤に溶解した樹脂ないし糊剤と顔料とが別個に存在することになり、両発明は組成上も性能上も差異を生じない、しかも、コーテイング顔料は、本件発明の特許出願前から周知であるから、樹脂と顔料とを別々に配合する代りに、周知のコーテイング顔料を用いる程度のことは、単なる材料の変換にすぎない旨主張する。
成立に争いのない甲第三号証によれば、引用例に、先願発明のインキ中の顔料の分散安定性について、「糊剤は筆記文字を消去する際の顔料の飛散を防止するのみでなく、インキ中に於ける顔料の分散安定性を良好にする作用をなす。」(発明の詳細な説明第二欄第二四行ないし第二六行)との記載があり、これによれば、先願発明におけるように糊剤と顔料を別々に配合することによつても、顔料の分散安定性に良好な作用を及ぼすものであるとされているが、成立に争いのない乙第一号証(日本顔料技術協会編「改訂増補 最新顔料便覧」株式会社誠文堂新光社昭和五二年一〇月一日発行)、第二号証(特許出願公告昭五六―一五八三五号特許公報)、第三号証(特許出願公告昭五七―三九六六八号特許公報)によれば、顔料の本質的機能は色にあり、少量の顔料が多量の被着色物中にきわめて微細な粒子として分散されて、はじめて色としての評価がなされるものであるため、易分散性、分散安定性、色相とその堅牢性等が重要な問題となること、及びこれらの問題を解決するため顔料の樹脂コーテイングが行われるが、樹脂コーテイング顔料は、樹脂と顔料とを別々に用いる場合に比して、有機溶剤中において顔料がきわめて安定して、よく分散する点において優れていることが認められる。
原告援用の成立に争いのない甲第四号証、第六号証の一、二、第七号証、第九号証、第五三号証(いずれも実験報告書)は、いずれも本件発明の実施例に基づいて調製されたインキと先願発明の特許請求の範囲に記載された、顔料と樹脂とを別々に配合して調製されたインキとのそれぞれの顔料の分散安定性、又は右インキを用いてそれぞれ組立てたフエルトペンをもつてメラミン板、ポリエチレン板、琺瑯板に筆記した場合のインキの筆記安定性及び筆記膜の鮮明性等について比較した実験結果(但し、甲第七号証は、先願発明の実施例に基づいて調製されたインキの筆記性、消去性及び鮮明性についてのみの実験結果)を記載したものであり、その結果、両発明のインキの性能には差異がなく、かえつて顔料の分散安定性において先願発明のインキが優れている旨の記載がある。
しかしながら、これらの実験結果は、前記技術文献(乙第一ないし第三号証)により明らかな樹脂コーテイング顔料のもつ優れた性能として技術的に承認されているところと牴触する(なお、これらの技術文献は、いずれも本件発明の特許出願後のものであるが、右特許出願当時周知であつた樹脂コーテイング顔料((右の事実は当事者間に争いがない))を用いた場合と樹脂と顔料とを別々に配合した場合とのインキの性能について判断する資料とすることは何らの妨げもない)のみならず前記特許公報(乙第二及び第三号証)は、いずれも原告を出願人とし、かつ前記実験報告書(甲第六号証の一、二を除く)の作成者である塩井恵子を発明者の一人とするマーキングペン用インキ組成物の特許出願に関するものであり、右特許公報には、それぞれ「顔料としては有機顔料、無機顔料を問わず、従来より知られているものを適宜に用いることができるが、インキ組成物中に微粒子として安定に分散されるものがよい。この意味で顔料を樹脂に練り込んだ樹脂加工顔料は本発明において好ましく用いられる。加工顔料を使用する場合には、有機溶剤中において顔料が極めて安定によく分散するので、特に樹脂をインキ組成物に配合する必要がない点からも好都合である。」(乙第二号証の発明の詳細な説明第三欄第三一行ないし第四〇行)、「色素として顔料を用いる場合は樹脂で表面をコーチングした加工顔料を用いると分散よくかつ沈殿を生じ難く樹脂成分を必要とせず便利である。」(乙第三号証の発明の詳細な説明第二欄第一行ないし第三行)と記載されていることと明らかに矛盾する実験結果であつて、これをもつて本件発明と先願発明のインキの性能に差異がないものと認めることはできず、ほかに原告主張の事実を認めるに足りる証拠はない。
したがつて、前記相違点について単なる材料の変換にすぎないとする原告の主張は理由がなく、右主張を排斥した審決の判断に誤りはない。
(二)(1) 成立に争いのない甲第二号証によれば、本件発明は、「在来のホワイトボード用インキでは乾布地でふき取り得るものは、白い黒板の材質がホーロー製品などごく一部の材質のものだけに限られ、一般のプラスチツクボードなどではふき取ることが全く不可能であつた」(本件発明の特許公報の発明の詳細な説明第一欄第二二行ないし第二六行)ので、「フエルトペン用インキの着色剤として従来のような染料を用いることなく特殊顔料粉末を用いることによりインキ中で色素を一ミクロン以下のビニール系樹脂コーテイングされた粒子の状態にして、ホワイト・ボードの材質をたとえプラスチツクとした場合でも、これに書記したインキを乾布地などでふくと該描写インキの色素は容易に布地に移り、ボード面のインキは完全に消去することができるという点に着眼し」(同第二欄第一七行ないし第二五行)、前記(一)のように各種の物質を組み合わせることにより、「白板上における顔料粒子を含む筆記膜を湿つた状態にしておいてふき取り得るようにしたことを特徴とするフエルトペン用インキの製造法」(同特許請求の範囲)であることが認められる。
これに対し、前掲甲第三号証によれば、先願発明は、「黒板筆記用インキ、更に詳しくは黒板筆記に当り白墨に代えて使用出来る新規且有用なインキに関する」(引用例の発明の詳細な説明第一欄第一二行ないし第一四行)ものであつて、「従来黒板用筆記具としては白墨が広く使用されているが白墨を用いると手が汚れまた黒板拭等で消去する場合白墨に含まれている石膏、炭酸カルシウム等の微粉末が飛散し健康を害する等の欠点があることは古くから知られており、この欠点を除去することが強く要望されているが未だ満足すべきものは提案されていない」(同欄第一五行ないし第二一行)ので、このような技術的課題を解決するために研究を重ね、「従来白墨の概念を打破し之に代えて液状インキを用いることを可能ならしめるべく実験を行つて来た。その結果黒板筆記を容易に行い得るのみでなく通常の黒板拭きによつて筆記文字等を容易に消去出来る新しいタイプの黒板筆記用インキを完成するに至つた」(同欄第二三行ないし第二八行)もので、前記(一)のとおり、顔料を、糊剤を溶剤に溶解した溶液と稀釈液との混合ベヒクルに分散させることを特徴とする「黒板筆記用インキ」(特許請求の範囲)であることが認められる。
(2) 原告は、先願発明のインキは、白墨で筆記できる筆記板のみでなく、白墨で筆記できない筆記板にも用いられるものであり、本件発明の実施例に基づく製品であるインキも、従来白墨を使用していた黒板にも筆記することができ、かつその場合に通常の黒板拭きで消去することができるものである旨主張する。
しかしながら、先願発明の明細書の前記記載に照らすと、先願発明は、従来白墨を使用していた黒板に白墨に代えて使用できるインキに関する発明であつて、先願発明におけるインキの使用対象とする黒板は、従来白墨を使用していた黒板、すなわち木製黒板(成立に争いのない甲第二五号証、乙第一〇号証によれば、木製黒板の材質は主としてベニヤ、杉板で、板面は黒色又は緑色であり、先願発明の特許出願約一年余前の時点で、東京都内の文具店における取扱い製品の九〇パーセント以上を占めていたことが認められる。この割合は、全国的にみた場合に更に上廻るものと推定される。原本存在及び成立に争いのない乙第一二号証の二の供述記載はこのことを裏書きするものである。)に限定されるものと解するのが相当であり、前掲甲第三号証により先願発明の明細書の全記載を検討しても、右認定判断を左右するに足りる記載も示唆も存しない。
なるほど、前掲甲第二五号証、成立に争いのない甲第一三ないし第二二号証、第二七、第二八号証、第三〇ないし第四六号証(第四五号証は欠番)によれば、先願発明の特許出願当時、黒板には、従来白墨を使用していた木製黒板のほかに、プラスチツク製、ガラス製、アルミ合金製、琺瑯製、ゴム製等の黒板があり、その色にも黒色のほか緑色、白色等があり、黒板は、これら白墨又はその他の筆記具で書き、黒板拭きで消去することができる筆記板の総称として用いられてきたこと、これら各種の黒板に対応して黒板に対する筆記具としても、クレヨン、水性ペン、マジツクインキ、色鉛筆、パステル、絵具、水性マジツク等が用いられてきたことが認められ、また成立に争いのない甲第八号証(特開昭四九―九三一二三号公開特許公報、特に明細書の項第一七、一八欄の比較例3の記載)ならびに原本存在及び成立に争いのない甲第五六号証(大阪地方裁判所昭和五二年(ワ)第三九五八号事件の昭和五五年六月六日付検証調書。右検証で使用した黒板が琺瑯製で表面緑色、裏面白色の両面筆記板であることは当事者間に争いがない。)によれば、先願発明の実施品であるインキは白墨では筆記できない琺瑯板、ポリエチレン板及びガラス板等に筆記し、かつ消去することができるものと認められる。
しかしながら、先願発明の明細書は、前記のとおり、その技術的課題、発明の目的、構成要件、作用効果等のすべてにおいて、先願発明は従来白墨を使用していた黒板を対象とする黒板筆記用インキであることを明示しており、たとえ先願発明の特許出願当時、黒板が白板を含む筆記板の総称として用いられ、また先願発明の実施品であるインキが白墨で筆記できない筆記板に用いることが可能なものを含んでいるとしても、先願発明に係るインキは、従来白墨を使用していた黒板に白墨に代えて筆記し、かつ消去することができるインキである点に技術的思想の創作としての新規性をもつというべきである(前掲甲第八号証によれば、先願発明の特許出願公告後に刊行された特開昭四九―九三一二三号公開特許公報には、当該発明は「表面が平滑で液状インキを不浸透性であるセラミツク表面板、或いはプラスチツク板、金属板、その他各種の材質よりなる筆記板の表面に筆記して得られる筆跡が乾いた布又は乾いた軟質の紙で軽く擦過されることにより容易に消去され得る性能を有する筆記板用インキに関する。従来この種のインキに関する技術については、下記のいくつかの発明があるが表1に記した通り欠点を有し、充分満足できるものでなかつた。」(明細書の項第二欄第一〇行ないし第一七行)と記載され、その一例として先願発明が挙げられ(同第五欄第五行)、先願発明のインキを琺瑯板、ポリエチレン板、ガラス板等に用いた結果が記載されている(同第一七、一八欄の比較例3)ことが認められるが、右記載は、従来のインキに関する技術の一つとして先願発明のインキを比較例に取り上げ、これを右の各種の筆記板に使用した結果を報告しているにすぎず、この記載から直ちにこの発明者が先願発明のインキが右の各種の筆記板に使用できると理解していたとすることはできないし、先願発明の明細書の記載に照らしても、一般に当業者がそのように理解するものとは到底認められない。)。
(3) 一方、本件発明のインキは、前記(1)のとおり、白板(ホワイトボード)に使用され、白板上における顔料粒子を含む筆記膜を湿つた状態にしておいて拭き取りうるようにしたことを特徴とするものであり、前掲乙第一二号証の二、成立に争いのない乙第九号証(試験成績表)、原本存在及び成立に争いのない乙第一三号証(前掲事件における昭和五四年一月一七日付検証調書)、第一八号証(前掲事件における昭和五六年七月一七日付検証調書)によれば、本件発明の実施品であるインキは木製黒色黒板(乙第一三号証及び第一八号証に記載された黒板が木製黒色黒板であることは当事者間に争いがない。)に筆記することはできる(但し、白墨で筆記した文字のようにはつきりとは見えない。)が、通常の黒板拭きで一回拭き取つても筆記膜は殆ど変らず、五回拭き取つても筆記膜は筆記当初より薄くなつたが、光線の具合や見る角度では判読可能な程度に残存することが認められ、したがつて、先願発明のような従来白墨を使用していた木製黒色黒板に筆記し、かつ通常の黒板拭きで消去することのできるものではないというべきである。
原告は、本件発明のインキは従来白墨を使用していた黒板に筆記し、かつ通常の黒板拭きで消去することができるものであるとして成立に争いのない甲第五五号証(実験報告書)を援用するが、右実験において使用した筆記板は、琺瑯製で表画緑色、裏面白色の両面筆記板であつて、前掲甲第五六号証記載の検証において用いた黒板と同一の黒板であり(右事実は、当事者間に争いがない。)、従来白墨を使用していた木製黒板ではないから、たとえ右実験により、本件発明のインキが右黒板に筆記し、かつ通常の黒板拭きで消去することができることが証明できたとしても、本件発明のインキを木製黒色黒板に使用した場合についての前記認定を左右することはできない。
そして、先願発明のインキは、その発明の技術的課題、目的、構成要件、作用効果等のいずれからみても、従来白墨を使用してきた木製黒色黒板に筆記し、かつ通常の黒板拭きで消去することができないものを含んでいないことは明らかであるから、先願発明と本件発明とは、前記(一)のとおり、それぞれのインキ組成物質においては一応対応関係にあるものの、この組成物を組み合わせるに当つては、先願発明は、本件発明のような特定樹脂コーテイング顔料と二種の特定溶剤の組み合わせを排除しているものとみるのが相当であり、その結果、両発明はその奏する作用効果において顕著な差異を生ずるものというべきである。
(三) 以上のとおりであるから、本件発明におけるビニール系樹脂コーテイング顔料と先願発明における調整していない別々の糊剤及び顔料とは単なる材料の変換であるということはできず、また本件発明におけるインキの組成、すなわち特定樹脂コーテイング顔料と二種の特定溶剤の組み合わせは先願発明の対応する組み合わせから当然排除されているというほかなく、従来白墨を使用した黒板に対する両発明の作用効果に違いがある以上、両発明のインキが同一であるということはできないとした審決の判断は正当であつて、審決には原告の主張する違法はない。
3 よつて、審決の違法を理由にその取消を求める原告の本訴請求は、理由がないから、これを棄却することとする。
〔編註〕 本願発明の要旨は左のとおりである。
有機溶剤に可溶性のビニール系樹脂でコーテイング処理してなる顔料を、有機溶剤中に溶解・分散させるに当り、その溶剤は前記顔料のコーテイング樹脂を溶解する揮発性エステル類、ケトン類と、溶解し難い不揮発性のものとの双方を混用し、かくして白板上における顔料粒子を含む筆記膜を湿つた状態にしておいてふき取り得るようにしたことを特徴とするフエルトペン用インキの製造法。